プロフィール




1951年北海道に生まれる。松阪女子短大卒。

三重大学生協、北海道大学生協に勤務。

新婦人相模原支部事務局長など歴任。

市議3期目。

趣味は絵手紙、映画鑑賞。中央区淵野辺に在住。



 私は、北海道で生まれ18歳まですごしました。父は小学校の教員で、母は父の弟夫婦と農業をやっていました。私の祖父母、父と2人の弟妹は、戦後北海道に開拓で入植しました。まったく農業の経験もなく、十勝のやせた土地に生活の糧を求めて関西から移住したのです。

 母は、私が初めての出産の手伝いに来たとき、最初の子だった私の姉を助けられず、1歳でなくしてしまったと話しました。具合が悪くなった姉を病院に連れて行ったその時、すでに手遅れで、母はなくなった姉をおぶって帰ってきました。

 父の転勤で十勝管内の学校を何度か転校しました。買い物は子どもでも8キロの道を歩きました。お正月にお年玉を握って買ったのは、数本のマジックインクで、ふたを取ると鼻にツンとくるアルコールのにおいが今でも懐かしく思い出されます。
 小学校は、1年生から6年生まで一つの教室、一人の先生(=父)という学校生活でした。一番多感な高校生の時、先生から生き方にたくさんの影響をうけました。「日本はアメリカの楯になっているんだよ」という先生の言葉に、大きな衝撃をうけたのもこの頃でした。

 18歳になって、親元をはなれ、三重県にある松阪短大にすすみました。そこで人権問題や大学生協をつくる運動に参加し、「よりよき生活と平和のために」の言葉に触れ、生協を仕事に選びました。
 北海道大学生協の職場で夫と出会い、結婚。
仕事を辞めたとき、社会から取り残されてしまうという喪失感で元気がなくなっていた私でしたが、4人の子育てを通じて新日本婦人の会と出会い、生まれてくる命を守るために私のできることは何かと考えるようになりました。相模原市で乳幼児医療費の助成制度が始まったときは本当に嬉しかったです。




 日本共産党には20歳のとき、戦前から命がけで戦争に反対した姿を知り、入党しました。


2007年からは、多くの皆さんの支えで議会に送り出していただき、以来8年間、中学校給食の実施や基地強化反対、早期返還への運動、すみよいまちづくりなど、みなさんと一緒に声をあげ、がんばってきました。


「子育てもくらしも平和であってこそ」が、私の原点です。